過去は新しく、未来はなつかしく(慶應新聞より)
私は2003年4月に、米国 St. Jude Children’s Research Hospital の准教授から、慶應義塾大学医学部生理学教室の教授として着任しました。それまでに米国でポスドクを経て St. Jude で独立し、本当に何もないところから研究室を立ち上げ、約8年間にわたりラボを運営してきました。しかし、日本に戻る際には、再びラボを文字通り空にし、自分以外の誰もいない状態となりました。アメリカを発つ日に、「兵どもが夢の跡」という言葉を実感し、強い感慨を覚えたことを今でも忘れません。その後、信濃町で22年間にわたりお世話になり、研究や教育をはじめ、充実した楽しい日々を過ごすことができました。そして今、再びラボを空にするにあたり、あの時と同じ感慨を抱いています。改めて、私の研究室でともに研究をしてくださった研究者、大学院生、技術員、秘書の皆様、さらには医学部および慶應義塾の関係者の皆様に、心より感謝申し上げます。
とはいえ、過去には実体がありません。今この瞬間も、未来は刻々と現在へと移り変わり、過去を形作っています。つまり、未来こそが新しい過去を作っているのです。このことを、理論物理学者の佐治晴夫先生は「過去は新しく、未来はなつかしい」と表現しました。一般的には、過去が未来を決定すると考えられがちですが、逆に「これから」の未来が「これまで」の過去を規定しているとも言えます。
おかげさまで、4月以降は慶應義塾大学 WPI-Bio2Q に異動し、本田拠点長のもとで研究を続ける機会をいただきました。近年、アルツハイマー病、統合失調症、自閉スペクトラム症などの精神・神経疾患や発達障害の多くは、シナプスの機能異常による「シナプス病(症)」であると考えられるようになってきています。これまで私は、中枢神経系のシナプスがどのように形成・維持されるのかを研究し、その知見をもとにシナプス病の病態解明と治療法の開発を目指してきました。WPI-Bio2Q では、中枢神経系に加え、腸管神経系、自律神経系、末梢神経系、さらにはそれらの神経系と各臓器をつなぐシナプスの形成機構にも焦点を当てて研究を進めていきます。このアプローチにより、多臓器が相互に連関しながらホメオスタシスを維持する仕組みを解明し、より多くの疾患の病態理解と新たな治療法の開発につなげたいと考えています。そして、「新しい過去」を作り続けることで、WPI-Bio2Q や慶應義塾大学医学部のさらなる発展に、少しでも貢献できればと願っています。
今後とも、変わらぬご指導・ご支援を賜りますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。